情報通信文化論最終課題用エントリー
[最終課題]メディアの使い分け
※本エントリーは情報通信文化論用です。
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当ブログを利用してこなしてきた情報通信文化論の課題も今回が最後になります。
うーん、思えば様々な内容を書いてきたなぁ。多少考えさせられる内容もあったので、とりあえず受講して良かったと思っておきたいと考えています。
さて、それなりに書いてきてそれなりに優秀課題として発表してきたので最終課題は少し力を抜いていきましょうか。
======ここからまじめに書いた======
■内容
メディアをどのように使い分けていますか。また、その理由があれば書いて下さい。
うひょー、ついに来た。
ブログの場合、ブログはブログであり、既存のメディアの代替になるものではないし相互排他的な技術ではないだろうというのが基本的な私のテーゼだったので、最後の最後は最後の最期らしい最期の最後となっていただけそうです。
さて、メディアの使い分けについて少し論じます。
メディアが情報の媒体となって情報を運ぶ場合、かならず発信者の主観や媒体による情報の丸めが発生します。
例えば写真なら時間と空間を完全に停止させるし、ラジオなら空間の広がりを完全に奪い取ってしまいます。テレビならば多少現実に近くなりますが、それでも「そこにあるもの」は二次元世界であり編集者の恣意も多分に含まれます。
どのような媒体であるにしろ、そこにはなにかしらの「介在するもの」が存在し、その主体が情報を媒体にあった形に丸めることで初めて情報を投げることを可能にしているのです。
私は思うのです。媒体は、様々な種類のものが必要だ、と。
情報を丸める必要があるのは、情報そのものが有機交流電灯のひとつの照明であり、あらゆる透明な幽霊の複合体であるから、なにかしらの作業によってそれを固めなければ発信をすることができないからです。
抽象的に過ぎましたでしょうか。つまり、情報は介在者が存在しないと実体化しないのです。
だから様々な種類の媒体が存在すれば、それだけ「介在者」の存在余地が大きくなり、結果として様々な側面から情報を眺めることが可能になると私は考えます。
ブログはブログであり、既存のメディアの代替になるものではありません。
今は、インターネットを介在した様々な情報発信手段が成立したことを手放しに喜ぼうではありませんか。
多少なりとも、自由を勝ち取る必要があった近代に戻ってしまう可能性が薄れていっているのですから。