情報通信文化論用エントリー
70406671,s04667yn
今回で三度目の情報通信文化論課題用エントリーとなる。
テーマは下記のように設定されている。↓
画像をもちいたコミュニケーション(たとえば、テレビ電話、写真など)で、気がついたこと、思うことを書いて下さい。
前回前々回と、妙な文章を地面に散乱した桜の花びらのように撒き散らしてしまったので、今回は控えめに加速したいと考えている。
//ここからまじめに書いた//
画像を用いたコミュニケーションはさすがに範囲が広いので、今回は論じる範囲を限定したい。
今僕は、課題文で“たとえば”としてあげられている写真はどうだろうかと考えた。僕は写真が趣味だし、写真は少なくともPolycomなどのテレビ電話や会議媒体のようにふわふわした存在ではない。
簡単に言えば、論じやすいのだ。
五分考えて、他に僕が文章を書けるものごとがないと気付いたので、今回僕は写真について書こうと思う。
今僕の横には一眼レフ、MINOLTAのa7-DIGITALが置いてある。今までの人生の中でもらってきたお年玉というお年玉を総て使い切って買った製品だ。ついているのは24-105(D)/f3.5-4.5という高くもなければ安くもないレンズ。
僕はこのカメラを使って適度に遊ぶ。写真をコミュニケーションの手段として扱うことを目的としているのではなく、写真を写真として考えて、写真というもの自体を思惟して楽しむことが主な目的なのだと思う。
写真をコミュニケーションの手段として使うとき、写真は会話という機械のために用意された電源として使われることが多い。沢田の写真がどうした、だとか、キャパの写真がどうした、だとか、お前の写真がどうだ、だとか。
そのなかで生まれる会話は確かに機械が動いた結果ではあるけれど、だが電源がないと機械は動かないので、こういったコミュニケーションには写真は不可欠の存在となる。
どこかの哲学者が、「人が関知できることは絶対的なものではない」と主張していたが確かにその通りで、世界は人間よりもとても大きな存在だ。
人間の目に見えるのは赤から紫までのとても短い範囲だし、しかも脳によってかなりの補正が加えられている。
写真にはそれがないので、写真を人間の目に近づかせるために紫よりも紫っぽい色を取ってみたり、赤よりも赤っぽい色を取ってみたり、人間によって薄く補正されてしまう色を薄くしてみたり、人間によって濃く補正されてしまう色を濃くしてみたりしている。
「記憶色に近づける」という作業だ。
写真はもんどり打って発展してきた。そして、写真は世界ではない世界を写しだすようになってきている。
ここに二枚の写真を提示する。これは私によって切り取られた世界で、一枚は写真によってそのままに作られた記憶色の世界、そしてもう一枚は私の感性によって作られた、世界ではない世界だ。


かなり昔から、写真は既に世界を作る存在として君臨し続けている。
「写」という漢字では収まりきらなくなっているのだ。
昔のツァイスやライカなどのレンジファインダーカメラで撮られた写真を見てみればそれは一目瞭然だ。とても荒い粒子で、世界を写しだす鏡としては不完全なのに、それは世界を世界よりも世界らしく写しだしている。
僕が一眼レフを買ったのはそういった憧れもあってのことだ。写真はコミュニケーションの媒体としてやっと機能するような存在だけれど、一度写真を使ってコミュニケーションをしてみればそれがどんなに凄い存在であるか判ってもらえると僕は思う。